老害という言葉の是非はともかくとして、自分も含めて、大多数の人間はいずれ老害化するであろうということは、避けられない事実だと思ってます。
例えば、自分があるコミュニティに所属していて、そこにAさんという人がいたとします。そのAさんは少々空気が読めない人だとしたら、それは老害にカテゴライズはされませんが、そのコミュニティにおいてはマイナス要因となる存在とは言えるでしょう。
しかし、コミュニティが長く続くにつれて、後にメンバーとなったBさん、Cさん、Dさんも、Aさんと似たようなタイプだったとします。これだけいうと、この3人もAさん同様、コミュニティにマイナスになる要因だ!と断定できるかというと、自分は違うと思うんです。何故なら、コミュニティは人の出入りがあり、もしかしたらその後のコミュニティにおいては、Aさん、Bさん、Cさん、Dさんのようなタイプは当たり前で、もはや浮いていない状態で、自分自身がそのコミュニティの変化についていけていない可能性もあるからです。
「いやいや、空気が読めないタイプは、どのコミュニティでおいても駄目では!?」という考え方も一理あるのですが、それはそういうタイプの人がごく少数の場合であって、コミュニティの大多数を占める人のタイプが変わっていたとしたら、そのコミュニティにおける空気が読めないタイプも変わってしまう可能性があるということ。昔だったら許容されていた発言、表現が、現代では批判の対象になったり、その逆もあるように、環境の変化に気付けず、それはいつか老害化に繋がるんじゃないかなぁと思っています。
ここで考えないといけないのは、その変化が起きやすいコミュニティと、そうでないコミュニティがあるということ。それこそ、家族とか同級生仲間とかは、基本的には等しく年を取り、人の入れ替わりもほぼない(減ることはある)ですから、老害化は発生しにくいです。しかし、趣味の集まりやら職場やらだと、ほとんどの場合は人の入れ替わりがあるわけで、その変化、特に自分より若い世代の流入による変化にどれだけ適用できるか。
ただ、難しいのは、前者の変化が起きにくいコミュニティに所属していれば、老害化する場面も殆どないとは思うのですが、これだとコミュニティは小さくなるか、無くなるかの二択みたいなもので、それだけに依存するのはリスクが高いんですよね。だから、変化が起きやすいコミュニティにも所属しつつ、いかに自分を客観視出来るかが課題になりそうです。
現状、老害化の多くは「自覚症状がない」と思っていて、老害化してる頃には自分もその判断ができない・・・いや、こんなことを書いてるけど、すでに何らかのコミュニティでは老害化している可能性すらあるのが怖いですね。だからこそ、今いるコミュニティで楽しいのは大事ですが、時には違うコミュニティにも積極的に参加することで自分の立ち位置を確認して、「あれ、どのコミュニティに居ても違和感がある!?」となったら黄信号。楽しいと思えるコミュニティからどこかのタイミングで距離を取って、俯瞰してみる。結局、コミュニティ内の入れ替わりがあった時、「同じような仲間とだけ絡んでる」状態が長期化すると、コミュニティの中で変化の起きにくい小さなコミュニティを作っていることになり、その小さいコミュニティの人間が全体から観たら老害の集まりになってる・・・なんてこともありえます。現実問題として、誰とも関わらず生きていくのは不可能ですし、できることなら可能な範囲で老害化は防ぎたいですから、今からできることをやっていきたいです。
・・・という文章を残しておいて、いつか自分がこれを見返した時にどう思うのか、それが恐くもあり、楽しみでもありますね。